ファンションブランド【KENZO】の創業者・高田賢三さん。
文化服飾学院ではコシノジュンコさんや松田光弘さん(NICOL)と同級生で花の9期生と呼ばれるメンバーで、後輩の山本耀司さん(Yohji Yamamoto)からも慕われる人格者でもありました。
賢三さんは生涯結婚もせず子供も持たなかったようですね。
ファッションデザイナーとして人生のすべてをかけたKENZOブランドは世界に認められる日本の誇りでもありましたが、賢三さん自身は波乱万丈だったようです。
今回は順風満帆に見えた賢三さんの影の部分でもある経営破綻、破産といった部分にスポットを当ててみました。
パートナーとの別れがKENZO破綻の原因?
1970年代前半から1980年代前半はパリコレの人気ランキングのトップを走り続け、今でもファッション界に大きな影響を与える【KENZO】ですが、高田賢三さんのデザイナー人生は1990年頃に大きな転機をむかえました。
まず共同経営者でありKENZOブランドを大きく育てたパートナー、フランソワ・ボーフュメ氏との確執が表面化されます。
1980年代後半から大きくなりすぎた「KENZO」はもはや賢三さん一人では手に負えなくなってきていました。
作品の方も「もっとクリエイティブな服を作るべき」と言われ始め、当時のトレンド“セクシー”も自分には作れない、自身が時代に合っていないと悩んでいたそうです。
同年、賢三さんの私生活でのパートナー、グザビエ・ドゥ・カステラさんが不幸に見舞われてしまいます。
さらに追い討ちを書けるようにパタンナーであり賢三さんの右腕だった近藤淳子さんが病に倒れてしまいました。
のちに賢三さん自身が人生最悪の時期というほど様々な不運が重なってしまったようです。
結局、精神的にも追い込まれてしまった賢三さんは1993年に自身のブランドをLVMH(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)に売却してしまいます。
賢三さんはこの時の売却についてすごく軽はずみだったと後悔していました。
LVMH傘下でも賢三さんはデザイナーを続けていましたが1999年を最後に引退しました。
引退後2年間は契約上デザイナーとしての活動はできませんでしたが2004年自身の新ブランド「GOKAN KOBO 五感工房」(2006年「TAKADA」に改名)を立ち上げましたがこちらも2007年に閉鎖せれてしまいました。
これは事実上の経営破綻となり賢三さんはパリの自宅などの財産も失うことになり自己破産したようです。
若い頃からデザインに没頭しビジネスは無関心?
70年代の賢三さんはショーやデザインのことしか頭になかったらしくビジネスについてはまったく無関心でした。
それが80年代に入りジョルジオ・アルマーニで経営手腕をふるっていたフランソワ・ボーフュメ氏が加わることで一気に店舗やブランドも増やし業績を上げることに成功しました。
ボーフュメ氏のおかげで賢三さんはデザイナー業に集中することができたのですが、経営を任せきりにしてしまったことはご自身も後悔していたようで、先のことを考えてクリエーションとビジネスを両立した会社体制を作っておけばよかったといっています。
イヴ・サンローランにピエール・ベルジェという右腕がいたことを賢三さんはとても羨ましく思っていたそうです。
ベルジェがサンローランの最初のコレクションからすべての資料を残していることを評価し、経営だけでなくクリエーションの部分までサポートできることを絶賛しています。
賢三さんにとってのベルジェは近藤さんだったそうで近藤さんのリタイアはとてもショックだったそうです。
きっとこれはとても重要なことで、もし近藤さんが元気だったら、近藤さんの代わりになる人材がもうひとりいたならばKENZOはいまでも残っていたことでしょうね。
【まとめ】
今回は高田賢三さんの破産について調べてみましたが、賢三さんに訪れた数々の不幸や、後悔の念なども知ることができました。
もう一度人生をやり直せるとしてもファッションが好きなのでファッションの仕事をやると思いますといっていた賢三さん。
そして絶対に経営や政治の世界には行かないとおっしゃっています(笑)
100年後には生まれ変わった賢三さんが新たなデザインで世界のファンション界を席巻しているかもしれませんね。
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